昨夜は、伊藤銀次さんとお話をさせていただき、楽しい夜でした。
数年前、銀次さんが今の私くらいやせておられた頃を知っているので、色々ご指導を仰ぐ。いたるところにでる加齢からの衰え、黒字なんだけど、実際にはお金のない会社を維持し、社員を守る責務。抱え込み消耗する悪循環のスパイラルにもまれているこの一年ほど。走ること。身体のベース作りから立て直すことを来年のテーマにする。
大瀧詠一師匠をもつに至りしエピソードと経緯。関西で、当時(1970年あたり)、無名だった「ごまのはえ」というバンドのプロデュースをお願いするテープと手紙をだしたら、わざわざ東京から高槻市市民会館まで、あの大瀧詠一さんが来てくださった奇跡?!
やるなら江戸で!と、当時、関西ローカルから花の東京にでる決意を促される。歯科医の道を捨てて、音楽に向き合うプレッシャーを思うのだ。
ほとんどのメンバーが脱落するなか、銀次さんと数名だけが、右も左もわからぬ東京へ!勇気がいると思う。
そのときより、大瀧詠一さんを師と仰ぎ、山下達郎氏とナイアガラvol・1以降、レーベルをかえて、佐野元春、ジュリー、ウルフルズと活躍の場を広げておいでですが、その原点は高槻市市民会館にありと。そのご縁に感謝をされておられるお姿に、ナイアガラーの神髄をみた気がした夜でした。
ご自身の年齢とほとんど同じ60周年記念モデルのフェンダーテレキャスターは、ガンガンに芦屋の夜に鳴きまくっていましたよ。