丁寧に生きる

天気が下り坂で、花見は今日しかない。


思いはみんな同じなのでしょう。




 

 

夙川沿いは、人、ひと、人だらけ。桜を愛でに、カップル、家族連れ、グループとたくさんの方々がお弁当を広げて、桜の木のまわりに溢れ返る状態。








 

それでも、長い冬に耐え、一斉に開いた花の下、日の光を浴びて、野外の空気を吸う。手作りのお弁当を開いて、みんなで家庭の味に舌鼓を打つ。素晴らしい日本の文化。

 

 

そんな様子を横目で見つつ、所用があり梅田グランフロントへ。

 

電車の車内、そして梅田駅周辺も、やはり人だらけ。以前は、巨大に感じたヨドバシカメラのビルが、やけに小さく貧素に感じる。

 

オフィスビルばかりだった通りには、様々な飲食店が立ち並ぶ。

 

道にはみ出て置かれたメニューに目をやると、様々な御菜から4品から6品選べるバイキング式のリーズナブルなランチメニューのお店が、同じ通りに5店舗もあった。

 

 

セルフサービス、作り置きの御菜で、出来るだけ人件費を削減し、薄利多売で、高い地代や税金を賄える売り上げをあげねば成り立たないご時世。

 

その御菜たちも、外国から安く仕入れた野菜や肉に、合成の出汁や甘味料をふんだんに使い、それなりの味に仕上げてある。レトルト、あるいは、どこか別の場所でまとめて作られたものを温めて出して、トレイに並べてあるだけだったりするのだろう。

 

 

出処のしっかりした安心安全な野菜を使い、人の手の温かみを感じる地味溢れた総菜を目の前で調理して、出来立てを出して貰えるようなありがたいお店は、地代家賃がべらぼうに高額な都会では立ち行かないのか。







 

 

耕した田畑、あるいは八百屋で、旬の野菜を自ら選び、洗い、皮を剥いて、家に伝わるレシピの味を確かめながら調理して、湯気がたつ出来立てを、家族に食べてもらう。

 

 

そんな風に丁寧に、生きることが難しくなった現代。

 

インスタントやファーストとは無縁の遠い記憶の中にある、至極まっとうな暮らしに憧れるのは私だけだろうか。



お婆ちゃんに頼まれて、庭の端にある鶏小屋から、まだ生暖かい卵を採りに行き、その卵を割って卵かけご飯を食べた、あの遥かに遠く懐かしい記憶を忘れられないのだ。