境界線はどこにだって存在する。
シネマ部で、ギリシャの巨匠、故テオ・アンゲロプロス監督の作品「こうのとり、たちずさんで」を鑑賞しました。
担当は、ジュリー部部長のF井さま。
数限りなく民族紛争の舞台になってきたであろうギリシャ北部。別名「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれているバルカン半島はアルバニアとギリシャの国境付近。国境近くの難民キャンプを取材に来たTVディレクター・アレクサンドロス(グレゴリー・カー)が、難民の中に、意味不明の「時には、雨音の背後に音楽を聞くために沈黙が必要なのです」との言葉を発して政界を去った、ある大物政治家に似た男に出会うことから物語は始まります。
『こうのとりたちずさんで』予告編 テオ・アンゲロプロス監督作品
失踪した政治家に似た、謎の男にマルチェロ・マストロヤンニ。その妻に、ジャンヌ・モロー。TVディレクター・アレクサンドロスは、この〈謎の男〉とその夫人(ジャンヌ・モロー)を対面させ、その様子をカメラに収めようとします。〈男〉の周辺を取材し続けるアレクサンドロスは、ある夜、ホテルのバーで身じろぎもせず自分を見つめている〈少女〉(ドーラ・クリシクー)に気づき、運命的に愛を感じるのです。彼は彼女と再びカフェで出会い、後を追って共同住宅の一室に入ると、仕事から帰ってきた〈少女〉の父が取材中のあの男だった。果たしてこの男が、行方不明になっている大物政治家なのか、移民による他人のそら似であるのか。サスペンス的な要素もありますが、謎は解かれぬままに映像は、命がけで故郷を捨て国境を越えてきても報われない移民の姿を描いていきます。
国境の境目で、コウノトリのごとくに片足をあげた警備隊の大佐、人種争いの果てに殺され、クレーンに吊るされる移民の男、国境となっている川をはさんでの無言の哀しい結婚式(花嫁はカフェで出会った少女)、電柱の上で作業を続ける黄色の作業服の男たちなど、曇天の続く寒々しい映像とともに境界線を越えて生きることの過酷さを訴えかけてくる。
人は、国や人種、イデオロギーや宗教、学歴や身分や貧富などなど、様々に境界線を引き、比較することで自らの位置を確かめながら生きる。国境などの大げさなものでなくとも、隣近所の付き合いや職場やクラスなどの何人かの集まりの中でさえ、大なり小なり無意識のうちに線を引いているのだろう。その境界線を感じずにはおれない状況におかれたとしたら・・。
国境を越えること、越えてからの難しさをほぼ感じることのない島国・日本に住んでいることのありがたみを、思わずにはいられない。異国の地で暮らすこと、境界を感じて生きることの意味をあらためて考えさせられる作品でした。
観賞後に、先日、ポーランド、ロシアへ旅行されたF井さまの手作りの東欧料理に舌鼓を打たせていただきました。特に本場のレシピによるピロシキやケーキが忘れ得ぬ味。練り上げ、自然醗酵で焼かれた素朴で、滋味溢れる味わいでした。
黒い餡は、ケシの実、干しぶどうとクルミ ↑
F井様、おいしい手料理、そして貴重なアンゲロプロス作品をありがとうございました。
いつもお読みいただき感謝しています。