自ら感じるを忘れない

最近、お腹の底からよじれるくらいに心底笑ったことがない。みなさんはいかがでしょうか。

 

子供のころ、土曜日のお昼には、あのトランペットとクラリネットではじまるテーマソングとともに吉本新喜劇が始まり、岡八郎さんや花紀京さん、船場太郎さんや山田スミ子さんなんかがお腹の底から笑わせてくれた。

 

いま考えると単純なギャグやストーリーではあるけれど。心配することがなく、確実に幸せな方向に向かっているというゆるぎない確信のもと、疑いがなかったからにちがいない。子供であったがゆえに、世の中の大きなニュースを受け止めることもなく、見てみ見ぬ振りができた。

 

いま、世界を覆いつつある閉塞感、言葉にできない将来への不安。3/11を思うに、一瞬先に何が起こるか誰にも分からない。

しかし、逆にいって何が起こるかわからないから、人生は楽しいとおもえなくもないのではないか。

 

「知性とは驚く能力のことだ」とはフランスの哲学者ロラン・バルトの言葉ですが、春の訪れを感じ、太陽の位置が少し高くなり、日差しの違いを肌で感じ、山の罫線に目をやり、街路樹の先に芽吹いた新芽の緑に心を動かし、自ら驚く。日々のお暮しや仕事に追われ、いっさいそれらをシャットダウンしてしまい、些細ないなことには目をつむり、大きな変化をも見落として、突然に起こった変化に驚かされ、腰を抜かし、対応などできなくなる。

 

能動で自ら驚くのと、驚かされる違いの大きさは180°違う。街路の桜の木の膨らみだした蕾をみてあらためてそう思った。